昨日、京都コンサートホールに舘野泉さんのピアノリサイタル「左手のピアニズム」を聴きに行ってきました。
脳溢血で右半身不随になって、いまは左手だけでピアノを弾いていらっしゃるのですが、音の数が少ない分、一音一音が研ぎ澄まされている気がして、時にはげしく時にやさしい音色に引き込まれていきました。
個人的にはcobaさん作曲の曲たちがよかったなぁ。
隣の席に座っていたオバチャンは、背骨が痛かったそうです。
京都コンサートホールのいす、背もたれのクッションが下のほうまでしかなかったのです。
背中の分の布が足りひんかったんかなぁ、とオバチャンは言っていました。
ふしぎです・・・、このいすを作った方、教えてください・・・。
帰りに、ロビーのゴミ箱でふしぎな現象を目撃してしまいました。
一般こみ・・・。
私はそれを見て、おなかがよじれました。
Kyoto Composers Jazz Orchestraのライブに行ってきました。
お店の人に「一番前空いてますよ」って言われ一番前に。
ステージが近すぎて、私の足がステージにのってました。スイマセ・・・。
とてもたのしかったです!
私もバンドやりたくなった!
今日から練習しようー。音楽やっている人を見るとうらやましくなってしまうのです。
でも、ピアノはとても人前で演奏するレベルじゃないので、ボーカルをやろうと思います。
歌も人に聴かせるレベルじゃないけど・・・。
しかも声めっちゃちっちゃいです。(でも昔、ボーカルやっていました。声めっちゃちっちゃかったです。)
テンポのよい曲が多くてたのしかったので、CD買って帰りました。
この間読んだ西加奈子さんの「きいろいゾウ」がちょっと長かったので、短編集の「しずく」を読んでみました。
ちょっと間延びした感じを受けてしまう長編よりも、短い中に涙や笑いがぎゅっとつまった短編のほうが私は好きかもしれません。
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表題作の「しずく」は、一組のカップルと二匹の猫の日々を描いた話。
遠い国の昔話でも語るような語り口で穏やかにゆるやかに書かれていますが、せつないです。せつないなぁ、普通の毎日の中でちょっとずつ、ちょっとずつ、何かが変わっていくのは。
猫たちの目線で見た人間の世界は滑稽でもあるのに、こんなにせつなく思うのは、登場人物が「イラストレーターのエミコさん」だからなのかしら。
「影」。
「人から自分という人間を決め付けられること」を嫌うのに、「皆から思われているとおりの私」をいつの間にか演じてしまっている・・・心当たりのある私はうんうんと共感しながら読みました。
皆が思っている「私」以外にも私はいっぱいいるし、どれも本当の自分なのに、自分から窮屈なその型にはまることを選んでしまうこと、あるなぁ。
着慣れた服をついいつも着てしまうようにそうしてしまう。私は小さいころからずっとそうだったなぁ。
「シャワーキャップ」。
「母の『大丈夫』を聞くと、結局私は、いつだって大丈夫なのだ。」
よくわかる。そうそう、お母さんに「なんとかなるってー」と言われると、根拠なんてなくても本当に何とかなる気がするのです。
母が東京の私の家に遊びに来てくれたときのことを思い出しました。今年の2月。
母と二人でごはんを食べたり、たわいもない話をしたりするのが私はとても好きで、母が東京に来てくれるとそれができるのでうれしかったのです。
娘にとって、母親って、ほんとうに特別な存在です。
なんてことのない話だけれど、なんてことないからこそ、じんわり、感動しました。
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この短編集の主人公たちは一見だーれも私とは似ていないのに、「あー、わかりますー」って、紙面を突き抜けて伝えにいきたいぐらい共感できるポイントが随所にありました。
そのことを思うと、今自分が悩んだり迷ったりしていることも、きっとどこかで誰かが同じように迷ったり悩んだりしているようなことなんだろうなー、とちょっと心がフワッとなりました。
西加奈子さん自身が描いた、表紙の絵も好きです。色が絶妙だなぁ◎
本はたくさん読んでいるのだけれど、何を読んだかさえもすぐに忘れてしまう今日この頃。
今日、西加奈子さんの「きいろいゾウ」を読み終わったので書いてみます。
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夫の名は無辜歩(むこ・あゆむ)、妻の名は妻利愛子(つまり・あいこ)。お互いを「ムコさん」「ツマ」と呼びあう若い夫婦の物語。
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物語は基本的にツマ目線で書かれているけれど、各章の終わりにはムコさんが書いたその日の日記が添えられています。
ツマ目線で語られた1日を、そのあとにムコさんの目線で振り返るのがだんだん読み進める私の楽しみになってきます。
ムコさんとツマはすごく近くにいて、毎日を一緒にすごしているけれど、
同じ一日でも、それぞれが見る世界は違う色をしているんだなぁ。
出来事って、どこから見るかによってぜんぜん違う姿をしている。
起こることは同じなのに、誰の目線で見るか、誰と一緒に見るか、どんな気分のときに見るか、でぜんぜん色が違って見えてしまう。
私という一人の人間の中でも、あのときあんなに楽しかったことが、いまはちっとも楽しめない、あのとき気にも留めなかったことが、今は気になってしかたない、なんてことがよくあるもの。
毎日を見守る、もうひとつの目線、まなざしがあるって、なんだかいいな。
もうひとつの目線は、すぐそばにあるのに、同じものを見ているのに、自分と全くおんなじように考えたりはしない。
自分から見る世界にがんじがらめになってしまいそうなときに、もうひとつのまなざしは、それをやさしくほどいてくれる。ときにはかき乱すかもしれないけれど。
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全体的な感想は・・・、ちょっと長かったかなぁ。
夢中で最後まで読み進めた、という感じではなく、実際、8月から読んでいてようやく読み終わったし。
ムコさんの過去の話とか、入り込めなくてちょっとうわのそらで読みました。
だから、すごくオススメでも、すごくお気に入りというわけでもない。
でも、なにげない会話とか、近所の人とのやりとりとか、ツマが心の中でもやもや考えていることたちとか、そんなのがとてもいい。
誰かが誰かを大切に思っている。そういう感じが全体に漂っていて、ここちいい。
身近にいるとても大切な人。
ゆるやかだけれど、確固たる愛情。
失ってしまうかもしれない不安や、すれ違いや、かみ合わない感じ。
すぐそばにいるのに、相手の心に直接触れることはできないもどかしさ。
それをいっぱい積み重ねて、ふみしめて、だんだん地面が固くなるように、愛情も確かなものになっていくのかもなぁ。
ふわふわ、たよりないものを、いっぱい重ねて重ねて。
自称、蒼井優ファンの私。
「絶対好きそうー」って何回も言われたことがあるのに、見たことがなかった「花とアリス」。
なんか、タイトルからしてすごいフワッフワして寝てしまいそうな話じゃないかと勝手に思っていて。
最初は確かに、映画ではなくどこかの女の子の日常を切り取ったかのようなふわふわ感が漂っていたけれど(だけどそれもこの映画の魅力)、いつのまにか話にひきこまれて見ていました。
あこがれの先輩(まーくん)を「記憶喪失」だと信じこませ、つき合い始める花と、彼女の親友アリス。3人の微妙な思いがもつれていく・・・っていう、ストーリーだそうです。
二人の気の抜けたやり取りや、笑顔。振り回し、振り回され、好きな人をめぐって取っ組み合いまでするのにまた笑っている感じ。自分にはこういう青春はなかったけど、あー、わかる、という感じもする。
アリスのお父さんがいいな。お母さんとは離婚してしまって、時々しか会えないお父さん。
サバの味噌煮に入れるほんの少しの生姜のように、地味で、決して主役にはなり得ず、量も多くはないのに、なくてはならなくて、映画全体にフシギな奥行きを与える存在感。
まーくんを追いかけながらも父親の記憶、もう戻ってはこない家族との思い出をなぞっているようなアリスの台詞はちょっとせつないです。
たまに父親と会ったときの淡々としたアリスの態度が、またせつない。
ホームでお父さんと別れるときの中国語のやりとりもいい。
我愛称。
お父さんの反応が、なんかずれているところも、リアルです。
父と娘って、こんな感じかもな。
あー!こんな女の子いるなぁ、と思わず感じさせるちょっとズルくて強引で、でも一生懸命で不器用な花と、妖精のような現実離れした透明感をたずさえていて、でもそれは漠然とずっと抱えている所在無さ、孤独感ゆえなのかしら、と感じさせるアリスのコンビネーションもいいです。
そんなアリスが、最後に踊るバレエも、いいです。
儚いまでの透明感を持ったアリスが、そこでは、ちゃんとまぶしいほどの光を放って存在していました。
普通の制服に、紙コップとガムテープで作った即席トゥシューズ。なのに美しい。
ステキな映画。ただ、花とアリスが好きになる「まーくん」という男子の魅力がわからなかったのが残念です。好みが合わなかったのかしらぁー。そこ、感情移入したかったなぁ。
あ、それとも、きちんと相手のことが好きなのではなく、ふとしたきっかけで相手をどんどん好きになってしまう、十代特有の「恋に恋してしまう」感を出すためのあぁいう「まーくん」だったのでしょうか。
そんなこと言ったらまーくんに失礼か・・。ごめ・・・まーくん・・。
それで、結局終わりがどうなったのか、よくわからない(私だけかも?)。
いろんなシーンが断片的に頭によみがえって、柔らかい光の感じとか、映像の美しさと相まって、長い夢でも見ていたような気持ちになるのですが、それもまた、この映画だから心地よいのでした。